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7's Library

小説書いたり本作ったり短歌詠んだり感想呟いたり

【第26回】短編小説の集い「のべらっくす」:だれかに

下記の企画に初めて参加させていただきます。

お題:師走

ジャンル:現代

 

■ だれかに ■

 

師走の語源はいろいろあるというが、漢字の通りなら“師が走る”という意味だろう。あるいは走らされているのかもしれないが。どちらにしても忙しいイメージだ。そして、そのイメージはあながち間違いではない。間違いではないが、忙しいのは何も今だけではない。いやむしろ年度末である弥生のほうがよっぽど忙しい。明日入稿の24ページの会社案内の最終出力をチェックしながら、青田はそんなことを考えていた。

そこは都内にある小さなビルの4階で、フラワーデザインという制作会社が入っている。青田はそこで編集の仕事をしている。といえば聞こえはいいが、彼の仕事の大半は雑務だ。編集らしい仕事がないわけではないが、全体の10分の1ぐらいだろう。残りの10分の9は客とのやりとり、スケジュールの調整、印刷会社などの協力会社とのやり取り・調整、出来上がったゲラチェック、校正などなど。だが、青田はこの仕事がそれなりに好きだ。朝は9時に出勤で、夜は終電間際か下手すると朝までコースということも多いが、それでも5年も続けるぐらいにはこの仕事を好んでいる、と思っている。実際のところは青田自身にもわからなかった。ただ毎日の忙しさから抜け出す術がなく、流されるように今を生きているだけ、と言われれば彼はそうかもなぁと頷いていただろう。

 

12月25日0時1分、青田は3時間程度ですべての最終チェックを終えた。

彼女もなく友人もなく、親元を離れて一人暮らしをしている青田にクリスマスを一緒に過ごしたい相手はいない。青田が考えていたのは、今日は走らなくても終電に間に合いそうだという、ただその一点だけだった。仕事の内容はともかく、毎日終電に乗れるか乗れないかで心をかき乱されるのが彼は嫌いだった。今日はその心配がないのがいい。そんなことを思いながら、まだ残っているデザイナーに「お先に失礼します、お疲れ様です」とだけ告げて会社を出た。

 

青田が駅についたのは24時20分だった。終電よりもう1本前の電車に乗れた。ほっとした彼は、帰りにコンビニでケーキでも買うか、などと考えていた。夕飯も食べ損ねていた。

そのとき、一人の女が青田の横に立った。

普通の女だった。ただ、彼女の腕には血がついていた。青田はぎょっとした。ぎょっとして、それを悟られないよう慌ててその女から視線を外した。外したが、気になった。気になって、視線だけ女の腕に向ける。やはり血がついていた。いや、違う。腕から出血しているのだ。何かで切ったのだろう。そろりと視線を女の顔へ向ける。女は前を向いていた。青田の視線に気付いた様子はない。それどころか、どこか遠い世界でも見ているように見えた。イッている、という言葉が青田の頭に浮かび、別の車両に乗り換えようかと思った。面倒ごとは避けたかった。

音もなく、女の目から何かがこぼれ落ちた。一瞬なんなのかわからなかった。それぐらい、女の顔には何も変化が見られなかった。ただ、一度落ちたそれは、再度落ちた。何度も落ちた。女の表情は変わらない。

青田は、コートのポケットからティッシュを取り出した。駅前でもらったものだ。それを、女に差し出した。

「これ、どうぞ。腕、怪我してるので」

女の顔が青田を見た。不思議そうな眼差しでこちらを見ていたが、やがて、ティッシュを受け取った。放送が入り、電車が走り出した。女はしばらくの間ティッシュをじっと見つめていた。その間も、女の目からは時折思い出したかのようにぽつりぽつりと何かが落ちた。青田はそれを見ないようにしていた。見ないようにしながら、けれどときどき見ずにはいられなかった。

青田の降りる駅は、すぐにやってきた。女のことは気になったが、青田はそれを振り切るように電車を降りた。女は最後まで何も言わなかった。けれど、その目はずっと、青田が渡したティッシュを見つめていた。

不思議と、お礼を言われたいという気持ちはなかった。ただ、ティッシュではなくハンカチがあれば良かったと思った。ハンカチであれば、洗って返してもらうという、ドラマや漫画でよくあるイベントが発生していたかもしれない。ティッシュではさすがにあり得ないだろう。

息を吐き出すと、外灯に照らされて白い息が宙に浮かび上がった。こういうとき、タバコでも吸えれば、もう少し決まったろうになぁと思いながら、青田は家路を急いだ。

明日からまた仕事だ。年末に向けて、ますます忙しくなる。この後もまだまだ年内にやってくれという仕事が増えるだろう。断りたいがそうもいかない。つらい、きつい、やめてしまいたい、そんな感情が自分の中にあることを、青田は意識的にも無意識的にも押しつぶしてきた。そうしないとやってこれなかった。

あの女に何があったのか青田は知らない。知りたいとも思わない。よくあるイベントなど発生しなくていい。ただ、青田があんな風になったとき、誰かにティッシュをもらえたらどうだろう、などと考えていた。

よく駅前でもらう無料のでいい、枚数も少なくて、派手な色合いのセンスのないコピーが踊っていて構わない、なんならいかがわしい店の宣伝でもいい、ティッシュがほしい。見知らぬ誰かでいい、男でもいい、年寄りでも子供でもいい、哀れみでもいい。

誰かに

誰かに

だれかに

 

 

星が降り願いをきいてくれたならきっと明日もいきていけるさ